自宅でDVD三昧!~映画・ドラマどんと来い!

もちろん映画館で見る大画面の映画の雰囲気は最高。でも自宅でまったりDVD三昧というのも良い物だ。人目を気にせず見た映画DVD・ドラマDVDの感想など書き散らしてみたり。

« 2006年07月 | メイン | 2006年09月 »

2006年08月29日

ホワット・ライズ・ビニース

 娯楽映画の王道としてサスペンス映画があり、その頂点にはヒッチコックがいる。
 ロバート・ゼメキス監督が、ヒッチコックを越えるスリラーを目指した本作。
 「ヒッチコックが生きていてCGを使えたらどうするか」――ゼメキス監督は、CGの担当者にこう指示したという。
 「タイタニック」のCGを制作した担当者は「コンピューター技術は映画の物語を深めるためにある」という考え方から、どこでCGが使われたのかを感じさせない自然な映像をつくりあげた。
 著名な数学者のノーマン(ハリソン・フォード)と、妻のクレア(ミシェル・ファイファー)は、ヴァーモントの湖のほとりの大きな家に住んでいた。クレアは娘を溺愛していたが、娘が大学に入って家を出てしまう。寂しさに苛まれるクレアの周りで、不気味な現象が起こり始める。
 BGMが消え、緊張感が高まっていくと、突然、わっと驚かせるような画面が飛び出す。それが5分に1回はやってくる。
 目の肥えた人だと、そろそろ来るぞと冷めた目で見てしまいがちだが、この映画ならハマるだろう。それは、物語が静かに静かに進行するからだ。見るものを構えさせない、平凡な生活が淡々と描かれている。
 これは、ハリソン・フォードとミシェル・ファイファーの演技力によるところが大きい。
 特に前半のハリソン・フォードは、いるのかいないのかわからないほど存在を感じさせない。個性を感じさせない演技から、演じるということの一側面を考えさせられる。
 この映画のテーマは、男の浮気。
 夫のたった一度の過ちから、家庭が崩壊し、夫は身を滅ぼすことになる。
 サスペンス映画で、このテーマが扱われることは多い。
 2時間、ハラハラドキドキを楽しむスリラー映画。男女を問わず恐怖感を与え続けられるが、特に世の男性諸君は浮気の恐ろしさを感じることだろう。
 だが、これは説教くさい映画ではない。見終わったあと、やっぱり浮気は恐いな、そんな気持ちが残るのだ。
 アメリカの離婚率は、約50%と高い。現代のハリウッド映画のほとんどのテーマは家庭の崩壊と再生である。
 家庭の崩壊から起こる悪影響は数知れない――犠牲になる子ども、少年犯罪、精神の病、麻薬、性犯罪などなど。
 金と時間が余ると、人はろくなことをしない。
 金はないくらいの方が幸せではないか。
 また、家庭という幸福の基盤の大切さ。映画を見ながら、そんなことを思った。

2006年08月25日

グリーン・デスティニー

 アメリカや台湾を舞台にして女性を繊細に描いた作品の多かったアン・リー監督による武侠映画。
 19世紀初頭、剣の英雄が群雄割拠する時代。許されない愛に苦しむ2組の男女がいた。400年前に作られた秘剣グリーン・デスティニー(碧名剣)の使い手として名を轟かせる英雄リー・ムーバイ(チョウ・ユンファ)と、その女弟子シューリン(ミシェル・ヨー)。もう1組、貴族の娘イェンと盗賊の頭ローもまた身分違いながらも惹かれ、激しく愛しあっていた。
 彼らは英雄の剣をめぐる復讐のドラマの中で真実の愛を知っていく。
 最も重要な役イェンを演じたチャン・ツィイー。そしてチャン・チェンがローを演じている。
 ユンファとチェンも今までで最高のクールさだが、ヨーとツィイーの女性陣の気品も戦いぶりも男性以上にすばらしい。
 とくに、二重、三重の引き裂かれの中で、自らの激情と戦いながらも死をもいとわない貴族の娘を演じたツィイーは、こんなに魅力的で最強の女性の存在は、めったに描けるものではないと思う。
 「マトリックス」(’99)の世界的大ヒットで注目された香港きっての武術アクション監督ユエン・ウーピンだが、本作は彼にとっての原点ともいえるワイヤーワークとアクロバティックな技闘のコラボレーションの集大成といえる仕上がり。
 ハリウッド的な誇張がない分、役者自身のしなやかな身体の躍動があり、かえって洗練されていさえする。
 デジタル特殊効果をとり入れつつも、古典的なワイヤーワーク・アクションを駆使したこの作品の方が優れた映画的言語をもったものになっている。
 例えば竹やぶでの戦闘シーンの美しさは息を呑むほどだ。
 紫禁城全景や広大な砂漠の風景を飛ぶ主人公たち。背景全体を使った飛行シーンをワンシーンワンカットで捉えていく。
 そののびやかな空間の移動、スクリーンを駆けめぐる主人公たちの動きは映画の快楽そのものだ。

2006年08月24日

キャラバン

 素晴らしく美しく、本物の自然を切り取り、かつ、自然への畏怖に包まれた作品。
 村の人から長老とあがめられ、若い頃キャラバンの隊長をつとめてきた人物の息子が死んだ。キャラバン隊長という絶対の権力を譲った息子亡き今、その地位をどうするか。
 息子の親友で長老とかつて対立していた男が周囲の信頼を得て隊長になった。しかし、進歩的で合理的な彼の考え方を長老は気に入らない。
 まだ幼い孫に期待をかける長老は、無謀にも自分でキャラバンを出すことにする。
 2人の対立は何を生むのか。
 村はどうなるのか。
 撮影は5000メートルを超えるネパール山中で、およそ8カ月をかけて行われた。
 ここで見られるのは厳しい自然だけではない。ワンシーンごとの映像が、絵のように完成されている。
 黄色い麦畑とヒマラヤ。
 キャラバンの牛の群。
 ベージュ色の地面に朱色の衣、そして、ターバン。
 それもそのはず、長編第1作目というエリック・ヴァリ監督は、元はナショナル・ジオグラフィックの写真家だった。彼はこの地に魅せられ住み着いたのだという。
 構図も色彩もきれいなはずだ。
 さらに、驚嘆に値するのは登場人物が1人の女優をのぞいてすべて、そこに住む信仰心の厚い敬虔な人々だということである。
 どうみても素人には見えない。自然体で、表情や顔が生きる力にあふれ、とぎすまされている。過酷な自然と共に生きると、こうした良い顔になれるのかと思う。
 しかも、現在でもキャラバンは続けられているらしい。
 生きるためにヤクに塩を積んでヒマラヤを越え、穀物にかえ交易して暮らしているというのだ。

2006年08月23日

アンジェラの灰

 1997年ピュリツァー賞を受賞し、欧米で600万部の大ベストセラーとなった同名ドキュメンタリーの映画化。
 1930年代、アイルランドからの移民としてニューヨークで暮らすマコート一家。若い夫妻には4人の幼い男の子と生まれたばかりの女の子がいた。
 不況で父親に仕事はなく、彼は失業手当まで呑んでしまうほどの酒好きだった。食べるものもなく、ある日、小さな女の子は死んでしまう。悲しみにくれる母親は、故郷の家族を頼ろうと、一家でアイルランドに戻る。
 アイルランドに戻っても、父親は働かなかった。働いてもすぐにクビになり、失業手当は酒代に消えた。ここで、下の双子の男の子が次々に亡くなる。そして、また子どもが生まれる。父親に対して、妻も子どもたちも呆れているが、憎み突き放すことはできない。
 映画を見ながら、エミール・ゾラの小説「居酒屋」を思い出した。「居酒屋」は、だんながヤクザな男だったため、娼婦にまで身をやつす女の物語である。
 男にほれ、情、母性が仇となって不幸になる女性は多い。逆に、呑む、打つ、買うといった遊びにうつつをぬかし、女性や家族を不幸の泥沼に引きずり込む男も多い。
 女の愚かさと男のずるさ。
 これは、男と女の悪しき業ともいえるだろう。アンジェラの灰は、この業を見るものに突きつける。
 やましいところのある人は、そら恐ろしい気持ちになるにちがいない。
 この映画は、主人公フランクが、少年から青年へと育つ成長談である。
 フランクは、どんなに悲惨な状況でも、子どもらしく伸び伸びとしている。随所に、ウイットに富んだエピソードがちりばめられており、笑いを誘う。
 健康な男の子の関心といえば、異性であり、性であるが、それも牧歌的な楽しい話ばかり。また、アイルランドでは、キリスト教のカトリックの教えが徹底されているようだが、フランクの自然な発想は、カトリックの厳格な教えを説く教師たちをハッとさせたりする。
 また、この映画では、社会の最底辺に暮らす庶民の生活が丹念に描かれている。街並み、食べるもの、着るもの、部屋、トイレまで、街の息づかいがこまやかに伝わってくるようだ。
 庶民への温かな視点をもった作品だ。
 ニューヨークでも、アイルランドでも、食べるものがないとき、近所のやさしいおばさんが助けてくれたりする。
 何とも言えない郷愁を誘う作品だ。

2006年08月22日

十五才 学校IV

 不登校、学級崩壊、いじめ……そういった顕在化した問題をあげるまでもなく、思春期の子どもの想いを理解するのは難しい。
 親は価値観を押しつけてはいないだろうか。周りの大人たちは何を見せればよいのか。深く考えさせられる作品だ。
 横浜郊外に住む中学3年の大介(金井勇太)は、学校に通わなくなって半年がたつ。
 ある日、両親に内証で九州の屋久島に縄文杉を見に行こうと決心し、ヒッチハイクをはじめる。果たして彼は、無事に遠い屋久島にたどり着くことができるのだろうか――。
 大介は、旅を通じて大きく成長していく。見たことがない景色を見、いろいろな人の人生と接し、人生の悲しみやつらさを断片的ではあるが知ることになる。
 そして、樹齢7000年の縄文杉に会ってエネルギーをもらいたいという夢を成し遂げることによって得る達成感。
 つまらない人間だと思っていた自分だって、やり遂げることができるのだという自信がわいてくる。
 作品中にでてくる詩がいい。
「――早く着くことなんか目的じゃないんだ。雲より遅くてじゅうぶんさ。この星が浪人にくれるものを見逃したくないんだ。――」
 つい早いことが重要だと思ってしまいがちだ。
 しかし、本当にそうだろうか。
 立ち止まって、ゆっくり辺りを見回すことによって得られるものも多いはずだ。
 今、大人が子どもたちにできることは、寛大な心で見守ること。
 人間は自分を大切にし、愛し愛されるところからすべてがはじまるのだということを教えること。
 そして、生きる姿を素直に見せることだろう。
 大人が一生懸命に生きていさえすれば、その姿から学ぶことは多いはずだ。そのためにもまず、大人自身が居住まいを正し、自信をもった生き方をしなくてはならない。
 学校シリーズも4本目になるが、それぞれが味わい深い。この作品もまた、山田洋次監督の愛が感じられる作品になっている。

2006年08月21日

X-MEN

 冒頭、ポーランドのナチスの強制収容所で、ユダヤ人の男の子が、両親から引き裂かれるシーンが映る。両親と別れたくない男の子は、泣き叫ぶ。少年の強烈な“思い”は、鉄の扉をグシャグシャに変形させてしまう。
 原作は、1960年代の伝説的な人気のアメリカン・コミック。見る前のイメージは、単純なアクション大作だったが、非常にテーマが深く、ただの実写版ではない。
 X-MENとは、いわゆる“超能力”をもったミュータントと呼ばれるごく少数の新しい人類だ。彼らは、進化によって超能力をもっているのだが、大多数の旧人類から危険視され、疎外されている。この映画は、異質なものを排除してしまう、人類がもつ“差別”という病を描いている。
 物語は、三者の対立が軸となる。
 ミュータントを排除しようとする人類。
 そうした人類を支配しようとするミュータント。
 人間との共存を信じるミュータントだ。
 そして、対立するミュータント同士が、さまざまな超能力を駆使して相争う。
 人類を支配しようとするミュータントのボス・マグニートーは、冒頭の少年が年老いたという設定である。マグニートーの論理は、自分たちを差別する者を攻撃しようとするもの。この論理は、差別される側からすれば、当たり前かもしれない。
 一方、旧人類との共存は可能だと信じるチャールズもいる。
 ミュータントへの人種差別を描いているが、60年代、アメリカに起こった公民権運動が背景にあることは想像にかたくない。
 どこまで人間を信じることができるのか。
 マグニートーは、到底信じない。
 チャールズは、どんな偏屈な人間であろうと、まずは信じる。
 ここに、両者の人間観が現れている。
 果たして、見る側の自分はどちらの人間だろうか。
 もちろん、アクション・シーンは見応え十分だ。超能力と白兵戦をうまくミックスしており、心臓をドキドキバクバクさせる迫力にあふれている。
 主人公のウルヴァリン役を演じたオーストラリアの男優ヒュー・ジャックマンは、ハリウッド初出演。男臭いが、脂ぎってはいない。変な自己主張を感じさせない、なかなかにいい俳優だと思った。

2006年08月20日

スペースカウボーイ

 クリント・イーストウッド監督=主演作品。
 1958年、米ソのあいだで熾烈な宇宙開発競争が展開されているなか、空軍の選り抜きパイロットで構成された“チーム・ダイダロス”は日夜、宇宙飛行士になるための激しい訓練を繰り広げていた。
 ところが、突然プロジェクトの権限が新しく設立されたNASA(アメリカ航空宇宙局)に移行し、アメリカ人初の宇宙飛行士になるという4人のメンバーの願いは夢と消えた。
 ところが、それから40年の時を経て、彼らにチャンスが訪れる。
 旧ソ連の通信衛星が故障し、地球に落下する危険性が高いとの知らせがメンバーの1人コービン(イーストウッド)に届く。
 その衛星はかつて彼が設計したシステムを使用しており、彼の協力が必要だったのだ。
 コービンは提案する。もしも“チーム・ダイダロス”を復活させて、宇宙に修理に向かわせてくれるなら協力しよう……。
 こうして、この映画は老人パワー全開となるのだが、周囲は老人たちを優しくいたわってはくれない。むしろ若いエリートパイロットたちは、どうして今頃こんな老いぼれが出てくるのだと冷ややかな態度だ。
 ところが、イーストウッドやトミー・リー・ジョーンズら演じる個性派ぞろいの老人パイロットたちにいたわりなど必要ない。体力や俊敏性は衰えていても、コンピューター世代に太刀打ちできない手作業的技術を身につけているし、女性を口説くユーモアや老練なテクニックにおいて絶対に若い連中に負けていない。この映画は老いについての新鮮な解釈を提案してくれている。
 また、アメリカと日本ではこんなに“チームワーク”についての考えや理想が違うものか、とあらためて感心させられた。
 メンバーがエゴを捨てチームに献身するのが日本的だとすると、アメリカではむしろ個々のメンバーのエゴを前面に出し、その熾烈な衝突を経て、チームがより高い段階に達することが理想とされる。
 本作の成功もまた、メンバーの個性を最大限に重視して全体としての力の向上を目指すアメリカ的理想が有効に機能した結果で、イーストウッド個人だけでなく、明らかにチームワークの勝利なのだ。

2006年08月19日

英雄の条件

 くせのある役をこなすことについては定評がある2大スター、トミー・リー・ジョーンズとサミュエル・L・ジャクソンの演技が見物である。
 「逃亡者」で冷徹な連邦保安官役だったジョーンズは今回はアルコール依存症の海兵隊弁護士ヘイズ・ホッジス大佐を、「パルプフィクション」で哲学的な殺し屋を演じたジャクソンは海兵隊屈指の歴戦の勇士チルダーズ大佐を演じている。
 中東イエメンでアメリカ大使館が大規模なデモ隊に包囲され、大使家族を救出することになる。
 そのときチルダーズ率いる海兵隊は、銃撃で一般市民を80人も死亡させてしまう。世界中から人道主義を踏みにじる行為として非難され、アメリカの威信はどうなるのか。そのときとった行動は軍人として正しい選択だったのか。
 チルダーズは軍事法廷で裁かれることになる。  テーマは忠誠心。
 チルダーズはアメリカを愛し、誠実に海兵隊につくし、自分が正しいと信じたことを実行する真の軍人だ。
 しかし、戦時下でとる行動を裁くのならそれはすべて殺人だ。人を殺すという行為はだれもが有罪なのは明白であるが、それが国を守るために敵を倒すという大義からなのか、それとも戦友を守るためなのか。さらに、そのために一般人を殺していいかとなると話は別である。
 ベトナムでいっしょだったホッジスとは命をかけあった戦友。
 人間として自信をなくしている3流弁護士ホッジスは、友の真実を見極めるためにイエメンに足を運ぶのだった。
 “軍隊”をもたない日本の、戦争経験のない世代にも、軍人としてとるべき行動の是非が迫ってくる。
 元アメリカ海軍長官だったジェームズ・ウエッブの原案をもとに脚本が作られ、ベトナムでのひとコマ、大使救出作戦の場面など、嘘のないように俳優たちに軍事教練したという。
 ジャクソンが孤立無援の役柄を毅然として演じ、友情のために立ち上がる役を演じるジョーンズにしても、どんな個性のある役柄でも見事にこなす素晴らしい役者として印象に残る作品だと思う。
 1  |  2  |  3  | All pages
最近のエントリー
[RSS新着情報]
カテゴリー
検索

最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
リンク集

ブログ・アクセサリー

track feed track feed
あわせて読みたい
SEO Stats powered by SEO-Stats.com
Googlebot last access powered by Linkfind.org
スカウター : 自宅でDVD三昧!~映画・ドラマどんと来い!

RSSフィード
Subscribe to my feed, 自宅で映画三昧!

映画ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったらクリックをお願いします。
にほんブログ村 映画ブログへ テクノラティお気に入りに追加する

Copyright © 2006-2008 自宅でDVD三昧!~映画・ドラマどんと来い! All Rights Reserved.

Powered by Movable Type 3.2-ja-2